昭和45年8月22日 朝の御理解                   明渡 孝


 御神訓「信心する人は何事にも真心になれよ」


 信心する人は何事にも「真心」と書いてね、真心になれよと。
 人間の力というものには限界があります。そこのところをまず分からしてもらう、だんだん信心をさせて頂いて、事の道理を聞かせてもらいますとそれが分かります。いわゆる「障子一重がままならぬ人の身ぞ」とこうおっしゃるが、確かに、人間の知恵・力というものは、ほんとの魅力であるということと同時に、その人間がいかに気張ったところで、頑張ったところでです、それは力である、限界がある。どんなに強いなら強いという人でも。
 例えば、車なら車を引っ張ってみるがいい、それに荷物をいっぱい積んでみるがいい。まあ車に積むのですから、自分の働き、力だけで持つのじゃございませんから、確かに持てましょう、百キロでん二百キロならそれくらい持てましょう。それを車に積んで、だんだんいっぱいの物を積んでまいりますと、やっぱ平道のところでは、それがいかにも自分の力で引っ張って行けます。
 ところがそれが、例えば少し坂になってくる。いよいよ坂が急になってまいりますと、もう動きもしません。いうなら、誰かになら、後ろから押してくれたというても、少しはまあ動いたにしても、後から押してもろうてもびくとも動かんというようにです、人間の力・知恵には限界がありますことをね、まず知らねばならんと、まあ分からしてもらいますよね。
 どげん頑張ったところで、人間の力は人間の力。そこを私信心とはですね、分からしてもろうて、限りのないもの、無限のもの、無限の力、いわゆる神力です。神の力。その無限の神力にすがるということが私は信心だと思う。だからそこんところがまず分からなければいけない。人間の力でどれだけのことができるか。
 けれども、神様のおかげを頂くと、無限、いわゆる、なるほど神力無限だなと、祈りの世界とかね、そういう世界に住み替えることができる。ですから、私どもはそこを願わにゃいけん。
 ところがです、もうそこまでは分からして頂いたにしましても、人間の力じゃ限界、限りがある。または、ほんとに密にもっと言いますと、人間は実は無力なものであるということ。そこのところを分からして頂く。
 人力から神力ですね。人力から神力に変わっていくわけですね。そこで、信心する人は何事にも真心になれよ、真心になれよと。自分の身に持っておる真心というものの限りを尽くすということ。それが、私は実意丁寧神信心ということだとこう思うね。自分の真心の限りを尽くす。その真心の限りを尽くすところから、いわゆる本当の信心になり、いわゆる本当のおかげ、いわゆる無限の神力につながることができるようになる。
 そういう、いわば信心、いや真心になりませんと、次の御神訓の中に、その次ですね「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ」と。いわゆる真の道というのが信心の道。お道の信心の道を行く人は、まず肉眼をおいて心眼を開け。その心眼を開くということがです、また真心にならなければ、いわゆる真心をもって神様に向かうということにならんと心眼が開けません。
 心眼が開けてまいりますと、いわばその次のまた御神訓「神の恵みを人知らず」とこうおっしゃる。神の恵みを分からして頂く。いわゆる無限、無尽蔵のおかげの恵みというものを分からしてもらうというのである。それは頭で分かるのではなくてです、自分の身にそれを受けていくことができる。そこには、いうならば、はっきりおかげを受けて、神様の恵み、神様のおかげの広大無辺なことを分からしてもらう。
 そういう私は、ひとつの順序というものをですね、踏まえてのいわゆる神の恵みが分かるでなからなければならん。人間の力にはもう限りがある。そこで、限りのない神力に、神力無限と。いわゆる無限の神力にすがろうとする。これはまたすがるわけである。すがるならです、すがるための姿勢が必要だということ。
 ただ「限りないおかげを頂かして下さい、限りないお限りに、恵みを受けさせて下さい」と願うただけではいかない。いわゆる「何事にも真心になれよ」というその信心。その真心にならせて頂く、しかも、自分の身に持っておる真心のすべてをです、神様へ打ち向ける、そういう姿勢にならなければ、神の恵みを身を持って現すというか、受けるというか、それを知ることはできません。
 話の上で、頭の上で分かるというのではない、信心はどこまでも、現実の問題にですね、直結したものでなからなけりゃいけない。いわゆる空論であってはならないというのである。
 「信心する人は何事にも真心になれよ」と。ね。だから、なぜ真心にならなければならんか、なぜ真心にならなければならないかということです、が分かったですね。なぜ真心にならなければならないかと。
 お互いが持っておるその真心。ならその真心とはどういうことかと、「実意丁寧神信心」とこう申します。真・真心と申しますけれども、まあこれは、いうなら天地の働きそのままが実意丁寧であり、そのままが真であり真心である。だから、いわば天地の心を心としていくというような稽古を金光様のご信心はするのですよ。
 それを、まあここではどういうことを言うかというと、いわゆる天の心は限りなく美しく、もう与えに与えていくというのである。限りなく美しゅうなりましょうというのはそういうことなんです。地の心というのは、黙って受けて受け抜いていくというのである。それが、いわば真・真心であり、それが信心、それが真心だ。そういう稽古を私どもは日々させてもらう。なかなか難しいです。
 けれどもです、そこんところを稽古を今度は本気で始めると、もう不思議に元気な心が湧いてくる。本気でその気になろうという気になったらです、不思議に元気が湧いてくる。
 それでも失敗を、いうなら倒れ転びもありますけれども、その倒れ転びをしながらもです、そのことに精進さしてもらうことがありがとうなってくる。ですから、どうでもここに「天地の心を心として」昨日でしたかな、御理解。天地日月の心になるということ。
 それには、いわば天は一口で言うと、限りなく与えて与えて止まない心。いわゆる限りなく美しゅうなろうという精進。大地は、それを受けて受けて受け抜いていこうという、黙って受けていこうというそういう心。それを私、今日はここでは真心だと思う。ね。信心する人は何事にも真心になれよと。なぜ信心にならなければならんか、なぜ真心にならなければならないのか。
 そういうです、例えば真心の信心というものがなされていくところからです、どういうことになってくるかというとですね、与えに与え、しかも受けに受け抜いていくという生き方になっていきよるとです、はっきり生まれてくるのが体験なんです。
 信心は、どういう難儀な中であっても、その難儀のことのおかげでです、こういうおかげが受けられた。この難儀のおかげでこういうことが分からして頂いたということになるでしょうが。
 そこで私がどうしたことになるかというと、その難儀ということは、だから私の言葉で言うと、無いということになる。難儀に見えておったのは神愛だということになる。そこに次の御神訓ね。「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ」と。いわゆる心の眼が開けてくるのである。
 今まで難儀に見えておったことがです、難儀ではないのだと。神愛なのだと。神様のご都合なのだと。神様がよりおかげを下さろうとする働きなのだと分かる。ね。肉眼をおいて心眼が開けてくるのである。肉眼から心眼が開眼されていくいわゆる過程がです、いわゆる信心になり、信心に精進さしてもらい、天地の心を心としてといったような、本気での信心修行がなされなければならない。
 信心をする、お願いをする、おかげを頂きたいと言うて願う。というて信心になろうとも努めない。真心になろうとも努めない。精進もしない。もうこのくらいで良いというような、いい加減な実意さ、丁寧さというものがです、枯れてしまうところから、いつまで経っても本当の意味においての肉眼から心眼が開けてこないのです。ここんところをひとつ本気で、いわゆる肉眼をおいて心眼を開かせて頂けれるところまで、お互いがおかげを頂くとです、もうこの世は苦の世でもなからなければ苦の世界でもない。もうほんとにこの世こそパラダイスである。極楽だということになる。ありがたいありがたい。
 そこにです、「神の恵みを人知らず」、そういう心にならせて頂くところからです、もう限りのないお恵みというように、神の恵みを人知らずと、理屈の上では、なら実際の上にです、恵まれに恵まれ続けることができれるおかげが頂かれる。いわゆる神徳の世界である。ね。無尽蔵。そこんところからです、いわゆる限りのない世界。
 「神の恵みを人知らず」と。神様がなるほど、こうして私どもの日々の生活上に、もう一切が神様のお恵みの中でないというものは一つもありません。けれども、それが分かるというだけではなくてです、いわゆる信心する者が信心になり、いわゆる信心する者が真心になり、その実意の限りを尽くさして頂く。まあこれは、私の身に持てることですよ。誰の真似じゃないです。教祖の真似できるもんじゃないです。私の身に持っておる思いというもののだけをです、現していくというのです。
 だから、信心の稽古というのはそのことだと。真心をどのように使うていけれるか、現していけれるか。どのように天地日月の心にならして頂けれるかということなんです。今日も受けに受けていくぞと。今日も与えに与えていくぞと。そういう私ども日々の稽古をさせて頂きよると、今申しますように不思議な力が湧いてくる。それはそのままが神様の喜びがこちらへ返ってくるのです。
 そしてそこから生まれてくる体験を持って、いよいよ、いわゆる信念が強うなってくる。自信に満ちた、いわゆる信念に満ちた生活がそこからできてくるようになる。まず、だから真心。ね。
 そこからです、どのような問題でも受けに受け抜いていくといったようなところからです、それがいわゆる難儀の様相であったその様相がです、それは難儀ではなくて、私が昨日ね、ここを終わらして頂いてから、ちょっとテレビを見せて頂いておりましたら、(  ?  )というのがあっておりますね。ちょうど私、一週間ぶりにテレビを見たような感じ、ちょうど一週間前に(    ?     )その後でしたよね、台風は。まあ一週間ぶりに見せて頂いたわけですけれど。
 中での(   ?   )のいろんな話の中から、十三日という日がね、たいへんな悪日だということを言うてましたですね。悪い事が起きてくる日はいつも十三日。その中に、夫婦の方達が話しておるのに、結婚式の日取りが決まっておった。ところが、佐賀県の方らしい、佐賀の父親が急に病気だというので、帰ってみたところがガンだということが分かった。しかもそのちょうど、結婚の十月かね、十月の十三日に式を挙げるようになっとったところが、十月の十二・三日頃が亡くなられる時だろうと医者が言うた。
 そこでですね、あっ、十一月の十三日か、だからその、一月繰り上げてですね、十月の十三日に結婚式を挙げたとこういうのである。ほんとに医者が言うたように、お父さんは十一月の十三日に亡くなられた。
 もし、私どもがその時にですね、式を挙げて新婚旅行に出ておったら、どっかあちらの続けて飛行機が落ちたことがありましたよね。その日に私どもは飛行機に乗らなければならない運命にあったのがです、一月早めたおかげでね、あれもちょうど十三日。飛行機が落ちたのも十三日だったが。父が身代わりになってくれたんだろうと思います、といったような話をしておられた。そういうところから、十三日という、そういう迷信的、そのことをです、あなた方は迷信を信ずるとか信じないとかといっような質問をしておりましたです。
 確かに十三日という日は、まあ悪い日というわけなんです。ところがここではどうですか。十三日と言や、神の悲願の達成する日。神の願いが成就する日として大事にしましょう。だから、あれはほんと言うたら悪日なんです、まあ言うたら。
 それはどういうことかというと、天地の親神様がです、それこそ痛い思いをさせてからでも「分かってくれよ」という願いの日なんだ。ね。だからそれは、悪日ではなくて神様がです、神の恵みを人に知らせたいばかり、そういう生き方ではいけんのだと。分かってくれよという神様の切なる願いがね、そういう、いわば悪い事が起こるといったようなことになる。それを難儀とこういうわけです。
 今日の御理解でいうと、その難儀というものは難儀ではない、神愛だということでしょうが。ですから、そういうところが分からしてもらうところに、悪日はないのであり、いや、そこからいよいよ恵まれに恵まれる、神の恵みというものを人知らずです、神の恵みをキャッチする。神の恵みを頂き続けれる土台というのがそこからできてくる。
 これは私、まあ余談ですけれどね、二人の問答を聞かして頂いよりましたら、目をこすって見たぐらいでした。(  ?  )という人がね、こうもり傘をこう差しておるんですよ。で見直したら、そんなもんが差しておるはずもないし、はあまた御心眼だったなぁと私は思うた。まあこれは、あとでいろいろ分かることでしょうけれどね。
 まあそんなわけでテレビを見せて頂きながらです、世のすべての人達が十三日というのを悪日だ。なるほど、そういや十三日にたいへんな事故やらが起こっておると。なるほど悪日だ。けれども、金光様のご信心を頂いて、ほんとに分からして頂くものは、もう最高の日。神の願いが成就するという日。神の願いが成就するということは、氏子の願いが本当の意味において成就する。神の願いが地上になる日なのである。
 それを私どもは悟らして頂いて、神様はこういう痛い思いをさせてからでも「分かってくれよ」と、いわば絶叫しておられる。いわゆる神の悲願が成就する日というのはそういうことだと思う。
 そのようにしてです、無限の神力に触れていくことができる。まず私は今日分からなければならないことはね、人力と神力である。神力。私達が本当に成功したい、本当に限りない恵みに浴したいならばです、まずそれが分からなければいけん。人間の力の限界というものを知る。ほんというたらその人間の力というておる、その限界というて、その力それすらもです、ほんというたら神様のおかげを頂けることではありませんけれども。
 その人間の限界をです、例えば自分の儲け出そうとか、自分の願いが成就することのために使わずにです、その人間の限界と思われるその心をね、その精進を信心に向けるのだ。それをしかも実意丁寧神信心に向けるのだ。そこからいわば肉眼をおいて心眼を開かして頂けれる。心眼の世界を覗くことができる。肉眼で見ると難儀であるけれども、心の眼をもって見ると、それは神の愛の印であるということが分かる。どうでも肉眼をおいて心眼を、心の眼を開かにゃいかん。
 積んだ上にも積まして頂く体験から、この世の中には難儀というものはないのだと頂ききれるところに、お道の信心のひとつの道付けというものが感じられます。そこにはじめて「神の恵みを人知らず」と、神様が悲しんでおられる、その神様の悲しみをです、神様のお喜びに変えることなのだ。
 私どもがそこに、神の恵みを人知らず。これはね、誰にでも与えられておる、皆生きとし生けるものの受けておる神の恵みというのではなくてです、ここでは神の恵みというのはね、信心してそういう、ただ今申しましたようなことが分からして頂いて、限りなく恵まれるという恵まれる。ね。無尽蔵。いわゆる神力無限、無限の神力の受けられるそういう恵みなのだ。
 そういう恵まれていく道をです、私どもは歩かせて頂いておるということ。真の道を行く人はとこういておられる。真の道を歩かして頂く。この「信心する人は何事にも真心になれよ」ということを皆さんに聞いて頂いて、その次の、またはその次の三ヶ条の御神訓を、次の二つの御神訓を例にこのことを聞いてもろうて、分かって頂きたいのは、私どもがなぜ真心にならなければならないかということ。
 信心する人の、信心する人は何事にも真心になれよとおっしゃる。その真心になろうと努力・精進もせずにです、どうぞどうぞというて願うのはです、なるほどそれがおかげを受けるかもしれません。願えば確かに金光様のお取次の徳によって受けますけれども、それは無限のものにつながることはできない。ね。
 だから、目先のおかげはおいて、ほんとの信心をせろというふうに言われるのはそのことなのです。それを先ほども頂いております、信心とは、やはり天地の心を心とするというようなところにです、いよいよ、ぎりぎり焦点を置いておかげを頂いていかなければならない。
 世間で言う、十三日という日は悪日だと。その悪日がね、神の切なる悲願。神の願いがほんとに地上に成就させたいばかりの神様の願いが、そのような形になって現れてくる。ということになるのでしょうね。どうぞ。